マイストーリー

最愛の息子・娘と。
背景は函館郊外のいわゆるニシン御殿です。こんなに大きかったとは、、
設計業務や現場監督は引退したとはいえ住宅LOVEです。


1964年大阪生まれの大阪育ち

 なんかめちゃいい服着てるやん! 

 坊ちゃんか??? 

 違いますよ、私の両親は私が可愛いあまりに子供服専門の小売店を始めたのでした。 

 当時にしては慧眼だったと思います。 

 父は秀才、母も商売の天才でしたので続けていれば私も晴れて2代目に、、、、 

 がしかし、おばあちゃんが営んでた呉服屋が大借金でピンチに。。。 

 長男の父は仕方なく借金まみれの呉服屋を継ぎました。 

 なんや結局、呉服屋のボンやんか。 

   

 そうです、ボンです。 

学生時代はスポーツと楽器

 写真は中学の時サッカーの試合で、相手ボールをスティールする私です。 

   

 この文章を書いているのは令和4年12月7日。日本がワールドカップでクロアチアに破れた2日後です。 

   

 なんで三笘を先発させなかったのか、、、、、 

 一人、レベチなんですがねぇー。 

 あの試合後の号泣、負けず嫌い、将棋の藤井聡太さんを連想させます。 

 中学生の私のポジションはその三笘と同じ左サイドバック。 

   

 余談でしたが、勉強嫌い、スポーツ観戦大好き人間。 

スポーツ番組ばかりテレビで見ていたので、野球はもとより、サッカー、ゴルフ、テニス、ラグビー、アメフト、バスケ、卓球までルールに精通しておりました。 

   

 こんな私を、真面目に勉学の世界に引き込んだのが、建築、住宅です。 

なんとなく大学、建築学科に進学

  

 手に職をつけるつもりで、建築学科に進んだ私は、なぜか建築系の学内自治会運動に奮闘。 
 (今の大学に自治会があるのかは、知りませんが) 
   
 理念は『創造的社会的建築家技術者を目指す』 
   
 なんのことやらですが、説明しますと、建築家の独りよがりでなく、ユーザーの為に設計をする。のみならず、社会全体の利益を考えて建築活動をする。 
   
 という感じでした。 
   
 今思い返すと、ここのところが終生自分の価値観になっていると感じます。 
   
 写真は、そんな自治会のクラブ旅行、倉敷。 
 橋から落ちかけてるのが私。おちゃらけ者ですね。 
   

そんな活動の中で知った、大教授(建築学会大賞二度受賞)の研究室に入りたいと勉強し、建築の中でも住宅に興味があったので住居学科修士課程にに進学しました。 

 大学院では最大手ハウスメーカーから委託されたデザイン志向の研究、韓国の住宅と日本の住宅の近代化比較研究、住宅ローンより高い家賃を支払う居住者の研究等を行いました。 

 住宅への思想を限りなく深めた二年間でした。 

研究室からは博士課程に進むように進言されましたが、実際に現場に出て設計や施工をやってみたい気持ちが50%、あとは情けない話なのですが、周りの先輩が賢こすぎて『自分が研究者になっても2流止まり』と実感したのが50%。 

 というわけで研究者の道は目指さず、実社会へ飛び込みました。 

デザイン志向の若き日々

 なんとか修士論文をまとめたものの研究室の居心地も良く、また何処へ就職したら良いのかがわからず5月くらいまでダラダラ在籍。 

 6月くらいから、次のステップに行けないなと思い、バックパック背負って4ヶ月ヨーロッパ建築視察の旅に出ました。 

 朝は8時に起き、くたくたになるまで歴史的街並み、著名建築や美術館を周り、スケッチをし。 

 今から思えば美味しい物でも食べりゃーよかったんですが、お金もないし、お酒も好きではなかったし。
歩き疲れて毎日20時には就寝。 

 どうしても、美しい建築の秘密を解き明かさなければの思いだけでした。 

 写真は、あと100年はかかると言われていた頃のザクラダファミリア(1988年写す)

 その後日本の技術者が何人か作業に参加し、ゴールが見えてきたそうです。 

 日本人ってすごいですね。 


実社会へ

ヨーロッパから帰国した私は、日本の木造伝統建築の素晴らしさを認識しました。 

 とはいえ、和風建築の本場の京都には、つても、あてもありません。仕方なく、書籍で見つけた和風建築を設計していた京都でトップクラスの設計事務所の門をたたきました。 

 面接は今でもすごく覚えてます。 

 当時の専務(設計の責任者)が私が持参した図面を見て、何度も首を傾げるんです(笑) 

 こりゃーダメだなと思いました。入社後に知りましたが、その設計事務所は、伏見工業高校のその年の最優秀学生が入社する、超実務派集団。工業高校+大学・大学院+遊学1年、私と同じ年で、その会社にいる同年代は既に10年の経験者です(汗) 

 でも社長の見方はそうではありませんでした。 

 PCはあってもOSがない時代、一太郎(ワードはまだ無い)を駆使し、写真入り10ページのポートフォリオをたずさえ、ロンドンのサーヴィルローロードで買ってきた生地の良いスーツを羽織った私に、即採用と! 

 チーフデザイナーは、まー採っとけや!ムード丸出しで、応接室から早々に退出しました。 

 世はバブル真っ最中の時代でした。 

 写真はその設計事務所が設計した茶室で催された社員のお茶会の様子。 

 いじめられてもおかしく無い性格・態度の私でしたが、先輩方はとっても優しく、丁寧に無知な私にご指導、ご鞭撻くださりました。感謝しかありません。 

和風建築のプロフェッショナルを目指す

 設計事務所で勤務すると、当然工事を請負う建設工事会社と共同作業になります。 

 すると設計事務所の人間よりの現場の方々の方が、建築の技術的なことに詳しいことに気づきます、例外なく。 

 実は設計事務所の仕事の大半はデザインでなく、打ち合わせや法的対応なのす。 

 我儘な私は、社長に『私、木造建築を極めたいんで、工務店に転職したいです。』とお願いしました。 

 社長は『どこへ行きたいんや?どこでも口聞いたるで!』 

 『また修行して気が向いたら戻っておいでな』 

 先輩たちの意見は真っ二つ。 

 『なんで川下に下がるねん?』 

 『いかにも君らしい、、、頑張れ』 

 どんだけみんな優しいねん。。。。。 

 写真は転職後現場監督として勤めた『ハイサッサ』の女優さんの家の棟上げ時。


 ちょっとスケール感分かりにくいんですが、これタンスの引き出しにおさっまてるミニカンナです。建築の大工用でなく、家具職人(正確には指物職人)の道具です。小さいので3cmくらいだったかな。どんどん和風建築の世界にのめり込む私。 

 やっと、自分のやりたいことに専念できる環境に。仕事が楽しくてしょうがない時代。 

 和風建築設計で有名な村野藤吾さんて大設計家がおられます。 

 私が入社した工務店は、その事務所設計の住宅関係はほとんど施工を請け負っておりました。 

 ご指定です。残念ながら私が在籍時には既に村野先生は鬼籍に入っておらてましたが、一番弟子のK先生の設計を数物件施工させていただき。コッテリデザインの教えを受けました。 

 一軒の家に原寸図をA1サイズで200枚書き、K先生に訂正しもらうというなんとも贅沢な仕事。 

 その他、表千家や官休庵さんというお茶のお家元の仕事も、たづさわらさせていただけましたし、また震災復興の生田神社へは大手ゼネコンの下請けとして出入りして、宮司さんから『あんたがおらんかったら、神社が直ってへん』と、ま、お世辞ですが言っていただけました。 

 ゼネコンはペーパーマージンだけで、実際の仕事をしているのはウチの工務店なんです、これが建設業界の下請けの常識。

クイズです

 そして楽しく仕事をしている私に3年後、在籍していた和風の工務店の社長からとんでもないお話が飛んできました。 
 『そろそろウチに骨を埋めるかどうか判断してくれ、、、』と。 
 つまり、終身勤める約束がないと、これ以上の秘伝の経験は積ませませんという話です。 
   
   
 何が秘伝なのか?この写真の窓は、茶室によく見られる下地窓という定番のデザインです。 
 ググって適当に貼り付けました。 
 
ここでクイズです。 
 この5つのうち、どれが正しいデザインでしょうか? 
 
正解は4つは0点。1つがまあ30点くらいです。 
 0点はやり方が間違ってます。下地窓の思想がわかってないんです。 
 30点のものはやり方は合ってるが(多分たまたまですが)センス悪しって感じ。 
 茶室、数寄屋建築ってこんな世界です。 
   
 クイズの答えは言えません。秘伝だから(笑)
 
熱心に真剣に、たくさんの伝統的な茶室を注意深く見れば分かることです、みな勉強不足なわけです。
 ただ、それを知らない設計者や工務店の工事を、知っている者がせせら笑うというなんとも悪趣味にも思える世界。 
 お高くても、ちゃんと修行した大工、工務店に頼まないとオーナーさんが恥をかきますよって事です。 
   
 こんな慣習の元になっているのは茶道だと自分は考えております。 
 茶道に七事式という作法があります。中級編?かな。 
 それを早く覚えるためには、早い話、ビデオなんかで一式録画すれば良いわけですよね。 
   
 それをさせないで、何度も稽古し、月謝や免状代を取っていく、、、 
 茶道はビジネスです、文化でなくビジネス。集金システムです。 
 ビジネスだから、ビジネスならタダで教えてはくれません。 
   
 そう看破した頃の、冒頭の社長からの、そんなお言葉でしたので、社会に出てから必死で追求してきた和の建築でしたが、30歳で一旦終了という形にいたしました。 


 今までは最低坪単価100万円、最高は坪単価300万円と、世間とは大ズレの世界で仕事をしてきた私。 

 学生時代に社会的民主的建築家技術者を目指し、また住居学科でハウスメーカーの研究や国民の住宅の近代化なんかを研究してきた私ですから、普通〜〜〜の住宅ってどうなってるんだろうと知りたくなりました。 

 そこでローコスト系の小さなハウスメーカーに就職。 

 住宅の品質を上げて、高級化路線も開拓したい会社の思惑とも合っていました。 

 たった1年でしたが、生涯最も働いた1年でした。 

ですが これが、一筋縄でいかなかったのです。 

 理由はいろいろありますが、住宅はビルと違い、図面でなくルールによっ建てられている側面が強く、いろいろな業種の職人たちがチームとして機能しないといけません。 

 サッカーの監督を変えたって、すぐに戦術は浸透し無いのと同じです、、、、 

技術はそこそこあっても、いわゆる専門バカな私は、だんだんと周りの業者さんと険悪なムードに。
私『こんなん、できるやん?』
業者『あんたとこ、いくらでこの仕事さしてるか知ってるんか?』

社会人として自分もまだまだ未熟なんだと痛感させられた訳です。 

営業の世界へ

 私は、将来の独立を見据えて、京都で最初に就職して以来、ずっと(社)建築士会の役員になり、同業者との交流を重ねてきました。 
 ある時、左官職人から一代で数百人規模の企業に育て上げた、京都では有名な建設会社の会長さんから『あんたは、なんでも器用にこなすが、一番向いているのは営業やで』と。 
 一昔前なら、このようなお言葉をいただいても、『なんで私が営業なんか?』となるところでしたが、前職場で営業さんに設計者として同行した際に、お客に喋りまくってるのは、なぜか営業マンよりむしろ私でしたので、なるほどと思い、住宅営業か不動産営業でもするかと思い始めていました。 
 そして前職で思いが通じず、退職し疲弊していた頃、建築士会のボランティアで、建築士資格試験の応募の受付をしていたときに、『先輩じゃないですか?、今何してるんですか?』いやぁーカクカクしかじかで、、、営業でもしようかなって思ってるんだ。
『じゃーウチに来てくださいよ!支店長を紹介しますから、、、と』 
 そんなこんなで、大手ハウスメーカーの京都支店長にお会いして、スイスイと入社が決まりました。 


 私が運よく入社できたのは、財閥系の木造軸組工法の最大手メーカーでした。 
 茶室建築や高級和風旅館で木造には精通しているつもりだったのですが、まず驚いたのが、仕様書や施工手順書、その他建設に必要な書類の充実ぶりでした。 
 それは私がこの会社に在籍した7年間の間にも、ものすごいスピードで進化していきました。 
 そして前職場のローコスト系住宅会社で、私が必死でやりたかったことが全て高水準で整っていました。 
 営業ー設計ー外注ー施工管理ーアフターメンテまで完璧でした。 
   

 入社年に新人賞(全国新人2位)その後も営業成績は常に上の下くらいでした。 
 管理の厳しい上司が転勤してきて、お尻を叩かれ全国47番になった時、以前の支店長から表彰式で、『コラっ!お前なぁー、俺の時は手を抜いとったやろ』(笑)と怒られたのが思い出です。 
 実際そんな熱心に働かなかなくても、そこそこは楽に売れました。 
 やっぱり現場仕事が仕事がしたかったで真剣になれなかったのかもしれません。 
 上司にも恵まれ、順調に出世はしましたが、高給であったため貯蓄下手な私でも手元に資金が溜まっていき、メラメラと開業独立への野心が芽生えてきました。 
 『技術も十分、営業や仕事の取り方も覚えたし、こりゃいけるぞと。』 
 お金物ちになりたいというよりは(お給金は十二分でした)更なる自分の理想を追求したいという気持に勝てず、機会が訪れたので、設計施工一環の工務店を立ち上げました。 
 もう40歳になってからのおそがけの開業でした。 

 大手メーカーの凄さを目の当たりにしておりましたので、新築ではなかなかメーカーに勝てないかなと思い、大手メーカーが苦手な小廻りの必要なリフォームや外構工事に焦点を絞り、商売をし始めました。 

 たくさんのリフォームや修繕工事をさせていただき、それは、またまた勉強の連続でした。 

 建築業は一生勉強と言われますが、全くその通りです。 

 365日休みなしなんて年もあり、仕事だけの10年間でしたが、諸事情で閉社しました。 


開業7年目くらいの時でしょうか、ついにあるきっかけから(スノーボードのウェア)理想の住宅構造・工法を思い描くことができ、業務内容を、リフォームから新築工事にシフトさせました。 

 このアイディアなら大手メーカーに対抗できる、自信の構造体仕様でした。 

 それは、低気密・高断熱という奇想天外な仕様でした。 

 スノボードウェアは、零下十数度でもあったかいですし、汗をかいても(住宅でいう結露現象や夏のジメジメ)体外に素早く湿気を放出します。 

 その仕組みで住宅を作ったわけです。 

 最初の1棟を施工したときは正直不安でしたが、大学院時代の同輩が岡山で環境工学の助教になっており、完成後に彼に計測してもらったところ、断熱・換気性能共に完璧な結果が現れました。 

 ついに自分の全ての経験が実ったわけです。その時は、もう人生仕上がったかな、と思いました。 

 ところが、宣伝力、広告費が乏しいのはそもそも仕方の無い事なのですが、この理論、どうも皆様には理解していただけないようで。けっして難しくないと思ったのですが、、。 

 しかし愕然としたのは毎月定例で一回、集まっていた設計士のグループ(かなり優秀な面々)で、その考えを披露したときの仲間の反応です。 

 『ピンとこない』???理解してもらえない。。。『そんなことに意味があるの?』 

 大学の実測データーもあるのに、建築士はそもそも興味の対象が違うのかもしれません。目新しいデザインとかにしかデザイナーは興味がないのです。 

 大袈裟にいえば、住居に関する哲学が違うのです。 

   

 結局その工法で10件ほど施工しお引き渡ししましたが、私の考えを理解してくれたオーナーは、そのうち、たった2人だけでした。 

 その他のお客様は、『よーわからんが、あんたが言うねんやったらそのやり方でいいよ』ってな感じで。 

   

でも理屈をご理解いただけなかったその方達も、住宅をお引き渡しした後に、、夏はカラッとしてて、冬でも暖かく殆ど結露しない家に、『不思議?』がってはおられましたが。。。 

   

 その工法は、現在では杓子定規な住宅の品質確保等の法律をクリアできない部分もあり、建設は困難となってしまいましたが、そのエッセンスだけは皆様のご新築にも取り入れるかもしれません。